2018年4月29日 『不公平を感じる心』(ルカ15章25節~31節) | 説教      

2018年4月29日 『不公平を感じる心』(ルカ15章25節~31節)

 今日の説教は前回の説教「放蕩息子のたとえ話」の続きの部分になっています。このたとえ話は放蕩息子が家に帰って来た時に、家に入れてもらう資格などまったくない愚かな息子でしたが、父親は無条件にただ死んでいたと思っていた息子が生きて帰って来たことを喜んで家に迎え入れたという前半の部分が有名で、この箇所だけを取り上げることも多いのですが、実は、この話には続きがあります。今日のタイトルは「不公平を感じる心」ですが、私自身、子どもの頃年子の弟に生まれた悲哀を十分に経験しました。私が子どものころはゆとりのない生活でしたので、新品の服を買ってもらうのはいつも兄でした。私は、いつも兄が十分着古したものを支給されていました。これが続くと私の心はひねくれて、親を疑うようになります。どうみてもうちの親は兄をえこひいきしている、すると僕はこの親の子どもじゃなくて橋の下から拾われて来たのだろうかと妄想するようになるものです。こんな心もやっぱり罪から来ているのですね。いつも自分が一番、自分が自分がという心、与えることよりもひたすら受けることを願う心、それは、神を離れて生きる人間だれもが持っている心だと思います。放蕩息子の兄は、世間の人々の目には立派な息子に見えていましたが、実際には、ひねくれた心を持っていて、父親とともに喜ぶことのできない人間でした。このたとえ話では、兄は、このたとえ話を聞いていたパリサイ人や律法学者の姿を現しています。

 このたとえ話に登場する父親は裕福だったようで、愚かな弟息子から生きている間に遺産をくれという願いを聞いて、自分の財産を二人の息子に分けてやりました。弟は金を持って家を出て行きましたが、兄は家に残って父親の仕事を手伝っていました。彼は家出した弟をどう思っていたことでしょう。兄が弟をそれほど愛していなかったことは、家出した弟を兄は探すこともしなかったことから分かります。もしかすると兄は「あんな奴、どこかで野垂れ死ねばいいんだ。」と思っていたかもしれません。私が子供の時にプチ家出をした時、私と兄とはそんなに仲が良くなかったのですが、それでも兄は私のことを心配して探してくれました。これが普通だと思います。やがて時がたって、突然、家出した弟が帰って来ました。その時、彼は畑で仕事をしていたため、彼は弟が帰って来たことも、その後、父親が弟のために村人を招いて盛大なパーティーを開いていたことも知りませんでした。彼が仕事を終えて家に近づくと家から音楽や踊りの音が聞こえて来ました。盛大なパーティーが開かれていることを知って、彼は召使いを読んで何が起きているのかを尋ねました。兄には、パーティーのことが知らされていなかったところを見ると、父親の家で、兄は他の人とあまり良い関係を持っていなかったのではないかと思います。召使いが、「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」と彼に伝えました。彼が弟を愛していれば、どんな状態であっても、家に帰って来たことを父親と同じように喜ぶはずですが、彼はひどく腹を立てました。彼の怒りは、愚かな弟が親の財産を食いつぶしたあげく家に戻って来たことだけでなく、父親がその弟を何も責めることなく、喜んで家に迎え入れたことに対しても、腹を立てていました。兄は、家の中に入ろうとしませんでした。彼の家族も、召使いたちも、集まっていた村人たちも、皆、弟が家に帰ってきたのを大喜びしていましたが、彼だけは、弟の生還を彼らと一緒に喜ぶことができず、腹を立て、心の中は不満でいっぱいでした。立派な人間と思われてた兄ですが、心の中は家出した弟と大して違っていなかったのです。パリサイ人たちはユダヤ人社会では、敬虔な宗教家として尊敬されていましたが、主イエスが罪びとと一緒に食事を楽しんでいる姿を見て腹を立てているのを見れば、彼らも、彼らが軽蔑していた罪びとたちとそれほど違いはないことが分かります。パリサイ人や律法学者たちは、神の教えを知りそれを守ることを何よりも大切にしていたのですが、実際には、彼らの心は神様から離れていて、自分の生き方をとおして自分が他の人々から褒められることを求めていたのです。そのために彼らは自分自身の行いを誇りにして傲慢になっていました。パリサイ人たちが罪びとを赦す神の心が理解できなかったように、兄は弟を赦す父親の心が理解できませんでした。

 召使いが父親に、兄が家の中に入ろうとしないことを伝えたのでしょう。父親は、パーティーに集まった人々に「ちょっと外に出てくる」と言って、兄のところに来て、彼をいろいろなだめて、家の中に入るように言いました。この父親の姿には、心をかたくなにして神の前で悔い改めようとしない人々を何とか救いに導こうとする神の心が現されています。エゼキエル書の中に、そんな神様の心を表す言葉があります。「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33章11節)神様は誰一人滅びることを望んでおられません。罪を持つ私たちが神の前にへりくだって悔い改めることを待ち続けておられるのです。ところが、父親がどんなに兄をなだめても、兄の心は頑ななままでした。兄は、父親に向かって次のように答えました。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」日本語訳では、「長年の間私はおとうさんに仕え」と「お父さん」という言葉が使われていますが、実際には、兄は、父親に話しているのに「お父さん」という言葉を使っていません。ギリシャ語では「長年の間私はあなたに仕え」となっています。兄は、父親に「お父さん」と呼びかけることを拒否しているのです。また、「仕える」という言葉も詳しく言うと「奴隷のように仕える」という意味の言葉ですから、彼は、長い間、父親に言われた仕事をしていましたが、彼は、仕事をしながら自分がまるで奴隷のように扱われていると感じていたのです。
 また、兄は「戒めを破ったことは一度もありません。」と言っています。しかし、それは本当なのでしょうか。イエスの目の前にいたパリサイ人や律法学者も、同じように、自分たちは律法を守っていると信じていましたが、それは、すべての律法ではなく自分で選んだ律法を守っていただけなのです。この兄も、自分はまじめに仕事をして正しい生き方をしていると信じていましたが、父親の気持ちを理解していませんでした。また聖書的に見ても、彼は弟に対しても非常に冷たい態度を示しています。兄は「あなたの隣人を自分自身のように愛せよという」旧約聖書で2番目に大事な戒めを守ってはいませんでした。しかし、彼自身はそのことに気づいていませんでした。
 さらに、彼は父親に言いました。「私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」彼は自分は父親から何ももらっていないと文句を言っています。しかし12節を読めば分かりますが、弟が父親に財産の分け前をくれと言った時に、父親は自分の財産を兄と弟の二人に分けていますから、「子ヤギ一匹父親からもらっていない」というのは明らかにウソです。実際には、兄は、父親と一緒に生活をする中で感謝すべきことがたくさんあったはずです。仕事が与えられ健康も守られ安全な生活ができていました。また、父親の財産も全部彼に譲られていたのです。しかし、どんなに恵まれていても、もし心の中に怒りや憎しみや不満があふれていると、自分が受けている祝福や恵みが見えなくなってしまうのです。人は、与えられて当然だと思っているものが与えられないと、「不公平だ」という思いにとらわれて自分がみじめに思えてくるのですが、それは、本当に不公平なのではなくて、自分がもらうことばかり考えているからそんな気持ちになるのです。兄のような心を持っていると人生がみじめになりますし、周りの人間も迷惑します。1テモテ6章6節に「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」という言葉があります。本当の豊かさというのは、どれだけ持っているかではなく、どれだけ満ち足りた心を持っているかということです。
 兄は続けて言いました。「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」弟は遊女におぼえれて財産をなくしたかどうかは分かりませんが、兄はそう決めつけています。日本語では、「このあなたの息子」という言い方は丁寧な言葉に聞こえますが、兄の気持ちは「こんな息子のために」と軽蔑した気持ちが込められています。普通なら、名前で呼ぶか「弟」と呼ぶと思いますが、彼は自分と弟の間に距離を置いているのです。この場面は非常に対照的です。家の中では、家出から帰って来た弟が家族や召使い、また村人たちに歓迎されて人々の愛に感謝し、喜びに満ちていました。一方、家の外では、父親からいろいろなだめられても、弟や父親、また弟がかえって来たことを喜んでいる村の人々にさえも、強い怒りを感じていました。泣く者とともに泣き、喜ぶものとともに喜べと聖書は教えていますが、彼にはそれはできないことでした。

 兄の言葉を聞いて父親が答えて言いました。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」ここでも、日本語訳では現れていない言葉があります。日本語では「おまえは」と訳されていますが、実際には、父親は兄に「息子よ」と呼びかけています。ギリシャ語で息子を表す言葉は「ヒュイオス」というのが一般的ですが、ここでは父親は「テクノン」という言葉で呼びかけています。これは「こども」という意味の言葉で、非常に親しみのこもった言葉なのです。普通の父親であれば、弟のために開いたパーティーに出ることを頑固に拒み、また、父親に向かって「子ヤギ一匹もらっていない」と文句を言う兄に対して、平手打ちを食らわせてもいいのですが、この父親は兄に対しても忍耐と寛容を尽くして話しています。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」父親はいつも兄と一緒に生活していました。父親は弟のために心を配るのと同じように兄にも心を配っていたはずです。一緒に生活していたのですから、兄が父親に何かを求めれば、父は必要なものなら喜んで与えたはずです。しかも、すでに父親は自分の財産の3分の2を兄に譲っているのです。父親はまだ現役で働いていますから、弟のために子牛を一頭ほふってパーティーを開くのは当然のことです。それなのに、兄は弟のために父親が惜しげなくごちそうを振舞うことが赦せませんでした。
 兄は、決してパーティに加わろうとはしませんが、父親も彼を無理やり家の中に引っ張りいれることはしません。そんなことをしても、兄は決して喜ばないことが分かっているからです。神様は全能の神様ですが、私たちを無理やり引っ張り入れることをしません。私たちが自分の心から喜んで神のもとへ来ない限り、神のもとに来ることは無意味だからです。家の中では人々が喜びに満ちているのに、家の外で交わりに加わらないで怒りと憎しみに縛られている兄の姿は、愚かな生き方をした弟以上にみじめな姿に見えます。彼は勤勉でまじめな人間です。世間の人々が彼を見るとかれを親孝行な息子と褒めるかもしれませんが、父親の前では、意地っ張りな頑固な息子で、受けることのできる祝福をたくさん逃している、もったいない生き方をしている人間でした。人間の価値は、世間一般の人々の前での価値と神様の前での価値が違うのです。弟は世間の人々には愚かな人間にしか見えませんが、父親にとっては、自分のところに帰って来るなら喜んで迎えるべき大切な子どもです。神様は、一人の人も滅びることを願わず、いつか悔い改めて戻ってくるのを待ち続けてくださる方です。
 イエスがこのたとえ話を語ったのは、宗教の指導者であったパリサイ人や律法学者たちに対してでした。彼らは自分たちが正しく、弟息子のような人間は神に愛される資格がない人間だと考えていましたが、実際には、彼らのほうがこの弟以上に神の心から遠く離れていました。私たちも、父親の哀れに満ちた愛を喜ばない兄のようなわびしい、不平だらけの心を捨てて、すべての人が救われることを願って祈り続け、神様と同じ心を持って、一人の人が救われることを共に喜ぶ者でありたいと思います。

2018年4月
« 3月   5月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

CATEGORIES

  • 礼拝説教