2020年3月15日 『人間の権威と神の権威』(マルコ15章1-15節) | 説教      

2020年3月15日 『人間の権威と神の権威』(マルコ15章1-15節)

 15章の1節には「夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。」と書かれています。エルサレムでは朝5時ごろに夜が明けますが、非常に朝早い時間にユダヤ教の指導者たちや国会議員たちが集まりました。ユダヤの律法では、正式の裁判は明るい時間に行わなければならないという決まりがあったので、彼らは形だけでも法律に従ってことを行おうとしていたからです。この時の裁判の様子はここには記されていませんが、ルカの福音書の22章に詳しく記されています。ユダヤ教指導者たちがイエスを死刑にする理由は、主イエスが神の子であると言ったということです。ユダヤ人にとって、神ではない人間が自分は神だと言うことは神への冒涜であり、死刑に値する罪でした。
 では、なぜ、彼らはこれほどにイエスを死刑にしようと必死になっていたのでしょうか。一つには、イエスの教えや奇跡の働きによって、多くの人がイエスについていくようになっていたからです。ユダヤ教指導者たちは、自分たちの影響力が失われていることに危機感を感じていました。第二に、主イエスが彼らの偽善を見抜いて厳しく非難していたからです。彼らは旧約聖書の教えを自分たちの都合の良いように解釈して、人々には大きな負担を負わせながら、自分たちの権力や財産を増やしていました。主イエスが十字架にかかるためにエルサレムに入られた次の日、主は神殿で行われていた商売人を追い払いましたが、このことも彼らを激怒させました。彼らは、イエスから自分たちの偽善を指摘された時に、悔い改めることをせず、いっそう心を頑なにして、イエスを殺すことだけを考えるようになったのです。

(1)ピラトによる裁判
 ユダヤ教の指導者たちは、自分たちだけでイエスを死刑にすることはできないことを知っていたので、彼らはイエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行きました。ただ、ユダヤ人にとっては、神でない人間が自分は神だと言うことは死刑にあたる重罪なのですが、ローマの人間にとっては大きな問題ではありませんでした。それで、ユダヤ教の指導者たちは、総督ピラトを納得させるために、主イエスに対して何か別の罪で訴えなければなりませんでした。彼らにとっては、正義が何か、真理は何かなどはどうでもよいことでした。彼らの目的はただ一つ、イエスを死刑にすることでした。それで彼らは、イエスをローマ帝国に抵抗する反乱者であることを理由にして訴えたのです。これはルカの福音書の23章2節に記されています。「そして(彼らは)イエスを訴え始めて、こう言った。『この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。』」もし、彼らの訴えが真実のものであれば、ローマ帝国に対する大きな罪ということになるでしょう。しかし、イエスはローマ皇帝に税金を納めることを禁じてはいません。むしろ、このことを尋ねられた時に、「カエサルに納めるべきものは納めなさい。」と教えておられます。また、主イエスが大きな奇跡を行った時に、ユダヤ人たちはイエスを無理やり自分たちの王にしようとすることがありましたが、イエスはすぐに彼らから離れました。したがってユダヤ教指導者たちの訴えは完全なでっち上げでした。確かに、イエスは王の王、主の主であり、パウロの言葉を借りれば、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめてほめたたえるべきお方です。そして、世の終わりの時にはこの世のすべてのものを支配するお方です。しかし、主イエスはローマ帝国の政府に逆らって反乱を起こし、イスラエルを独立させるという考えはまったくありませんでした。
 2節でピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか。」と尋ねていますが、ピラトはどんな気持ちでイエスにこう尋ねたのでしょうか。彼の目の前に立っているのは、人々に唾を吐きかけられ、顔は殴られ、平手打ちにされて、ひどい姿のイエスでした。服は汗と血がついていてひどく汚れていました。イエスの十字架を預言した旧約聖書イザヤ書の53章2節には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」と書かれています。このピラトの質問は、イエスを皮肉るような、嘲るような気持で尋ねられているのです。主イエスにはピラトの気持ちもすべて分かっていたはずですが、イエスはその質問にもはっきりと真実な心で答えておられます。「そのとおりです。」この言葉を聞いたユダヤ教の指導者たちは、激しく怒り、ピラトに向かってイエスが死刑に値すると大きな声で訴えました。しかし、ピラトにとって、目の前のみじめな姿をイエスを見ると、どうしてもユダヤ人たちが言っているような人間には見えません。それで、彼はもう一度イエスに尋ねました。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」しかし、それでもイエスは何も答えませんでした。ユダヤ教の指導者たちの騒々しさとは対照的に、イエスは常に黙ったままでした。普通の人間なら、自分の身に覚えのないことで人から訴えられると、絶対に反論すると思います。自分の潔癖さを証明しようと必死に弁明します。しかしイエスは一言も答えませんでした。なぜでしょうか。彼らの訴えはすべて嘘ですから、嘘の訴えに一つ一つ答えても何の役にも立ちません。主イエスは何のためにこの世に来られたのでしょうか。それは、私たちの罪を背負って私たちの身代わりに罪の罰を受けて、私たちを罪の裁きから救うためです。主イエスは十字架にかかるために来られたのですし、いよいよその務めを果たす時が来たのですから、意味のない議論をしている暇はありませんでした。イエスの姿を見て、ピラトは、その姿が普通の人間とあまりにも違っているので、ひどく驚きました。そして、その姿も、イザヤ書には預言されていました。53章の7節にこう書かれています。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

(2)ピラトによる2度目の裁判
 マルコの福音書では、5節の出来事と6節の出来事が続きのように書かれていますが、実は、この間に、イエスは、ガリラヤ地方の領主であったヘロデ・アンテパスという人物のもとへ送られていました。当時のイスラエルは、エルサレムとその近くのユダヤ地方はローマ帝国が直接支配していたのですが、ガリラヤ地方は、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンテパスがローマ帝国から領主というタイトルを与えられて支配していました。イエスをどう扱ったらよいか分からなかったピラトは、イエスがガリラヤ出身であることを知ると、ヘロデ・アンテパスに丸投げしてイエスを送ったのです。しかし、主イエスはヘロデ・アンテパスの前では何も語らなかったので、また、ピラトのもとへ送り返されて来ました。ピラトは難しい立場に置かれました。彼はイエスが無罪であると確信していたので、正しい裁判をしてイエスを無罪だと宣言したかったのですが、そうするとユダヤ教の指導者たちを怒らせることになります。ローマ総督という立場のピラトにとって一番避けたいことは、自分が管轄する地域で暴動が起きることでした。暴動が起きると、ピラトは支配に失敗したと見なされて、出世コースから外されてしまうからです。何とか、この困難を解決しようとして、ピラトは、いつも過越しの祭りの時に行われていたことを利用することにしました。6節を読みましょう。「ところで、ピラトは祭りのたびに人々の願う囚人一人を釈放していた。」毎年、ローマ総督は、イスラエルの民との関係改善を目指し、ローマ帝国の憐みの心を彼らに示すために、犯罪人の一人に恩赦を与えることにしていました。ピラトは、イエスと、もう一人の犯罪人を選んで、群衆にどちらか一人を選ばせようと考えました。イエスの相手に極悪人を選べば、群衆はイエスを選ぶだろうと思ったからです。それで、ピラトは、彼にとって最悪の犯罪者バラバを選びました。7節にはこう書かれています。「そこにバラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。」彼は仲間とともに暴動で人殺しをした人物ですが、イスラエルで起きる暴動とは、ローマ帝国の支配に反対する暴動です。彼らが殺したのは仲間のユダヤ人ではなくローマの兵士や役人です。バラバはそのリーダーでした。バラバはローマ人ピラトにとっては最悪の犯罪者かもしれませんが、ユダヤ人たちにとってはむしろ英雄でした。ピラトは、そのことを理解していませんでした。ピラトはイエスを釈放しようとして、イエスとバラバを群衆の前に連れ出して、群衆に尋ねました。「お前たちは、ユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」ピラトは、みじめな姿をしたイエスの無実を確信していました。10節に書かれているように、祭司長たちのねたみによってイエスが訴えられていることを知っていたからです。しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、バラバを釈放させるように仕向けました。群衆はバラバの釈放を求めました。ところで、数日前の日曜日には、エルサレムの多くの人々がイエスがやって来たことを大歓迎して「ホサナ、ダビデの子に祝福あれ。」と口々に叫んでいたのですが、いったいどうなっているのでしょうか。まず、群衆と言っても、エルサレムのすべての住民ではありません。この裁判は、ピラトの官邸で行われていますが、そこは、そんなに広い場所ではありません。数百人入ればいっぱいになる程度です。ここに集まっていた人々、あるいは祭司長たちによって集められていた人々は、祭司長たちの側についている人々でした。イエスを信じている人はエルサレムにいましたが、ユダヤ教の指導者たちを恐れてここに来ることはできなかったでしょう。また、日曜日にイエスを大歓迎した群衆の多くは、イエスがローマ帝国を打ち倒す王様になるのではないかと期待していたのですが、その後、イエスの教えを聞いて、そうではないことを知ってイエスに失望していました。人間の心は、どこまでも自己中心で、ちょっとしたことですぐに変わってしまいます。イエスを釈放しようと頑張っているピラト、嫉妬心からイエスを死刑にしようと必死になってイエスに暴言をはいている人々、その場は騒然となっていましたが、一人主イエスはイザヤ書の預言の通り、屠り場にひかれていく羊のように黙っていました。14節「ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」群衆が暴動を起こしそうな雰囲気になってきました。ここで、暴動が起きると、彼の政治家としての人生は終わってしまいます。彼はイエスの無実を確信していましたし、イエスを釈放する権威を持っていました。しかし、人間の権威は非常に弱いものです。ピラトは、自分の立場と自分の生活を守るために、簡単にその権威を捨ててしまいました。暴動を抑えるためにはイエスを死刑にするしかないと彼は決断したのです。マタイの福音書によると、ピラトは群衆の目の前で水で手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」と言いました。そして、15節を見ると、ピラトは、群衆の期限を取ろうとして、ローマにとって極悪な犯罪人であったバラバを釈放し、イエスに厳しいむち打ちを加えてから、十字架刑にするためにローマの兵士に引き渡しました。ローマの法律では、イエスは無罪でした。そのことをピラトは知っていました。しかし、暴動が起きることを恐れました。それは、政治家としての自分の立場を守るためでした。神を恐れない人は自分が神のようになりますから、行動を決めるのも自分の都合が第一になります。彼は、暴動を恐れたため、群衆の力に支配され、群衆を恐れました。自分の身を守ろうとするため、周囲の人々に支配されてしまったのです。それは、私たちも同じです。神を恐れずに人を恐れると、何が正しくて何が悪いのかという基本的なことを捨て去って、周りの人間を喜ばせようとして、平気で間違ったことを行うのです。これはイエスを裁く裁判でしたが、実は、この裁判を通して ピラト自身がどんな人間であるのかが明らかにされました。
 主イエスは、群衆の願い求めるままに、十字架に掛けられるため、ローマの兵士に引き渡されました。ユダヤ教の指導者たちの陰謀が成功したように見えます。しかし、主イエスは、自分からローマの兵士に引き渡されることを許されたのです。このことは神ご自身の計画によるものだったからです。この一連の出来事を主イエスは、父なる神はどのように見ていたのでしょうか。そのことが旧約聖書イザヤ書53章11-12節に預言されています。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て満足する。」と書かれています。それは、母親が赤ちゃんを産む時に大きな苦しみを経験しますが、生まれて来た赤ちゃんの顔を見るとその苦しみをすべて忘れてしまうのと同じです。主イエスが苦しみの後満足されたのは、自分の苦しみによって、人々の罪が赦される道が開かれたからです。12節の後半に記されているように、主イエスが自分のいのちを死に明け渡し、背いた者とともに数えられたからです。そして、多くの人々の罪を背負って十字架にかかり、背いた人々のためにも「父よ彼らをお救いください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださいました。イエス・キリストが自分のいのちを死に明け渡してくださったから、今の私たちがあることを忘れてはなりません。

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