2020年9月27日 『イエスとは誰なのか』(ヨハネ7章25~36節) | 説教      

2020年9月27日 『イエスとは誰なのか』(ヨハネ7章25~36節)

礼拝説教 2020年9月27日 『イエスとは誰なのか』(ヨハネ7章25~36節)

 主イエスが、密かに、仮庵の祭りに参加するためにエルサレムに来られた時、すでに、十字架に掛けられるまであと半年になっていました。祭りが始まって三日ほどたってから、主イエスはエルサレムに入ると真っすぐ神殿に行って人々に教え始められました。ユダヤ教の指導者たちは、イエスがこの祭りには来ていないと思っていたので、主が突然神殿に現われたこと、そして、権威をもって教えられたことで、焦りました。群衆もイエスの突然の登場にびっくりしました。特に、先週の最後のところで、主イエスは、ユダヤ教指導者たちの偽善をはっきり指摘されたので、その場に、緊迫した雰囲気が流れました。ユダヤ教の指導者たちは、イエスが安息日に病人を癒すという奇跡を行ったことで批判をしていました。モーセの律法には、安息日には仕事をしてはならないと定めてありますが、彼らはイエスの奇跡を仕事だと見なしたのです。それに対して、主イエスは、ユダヤ教の指導者たちは、安息日でも、割礼という儀式を行っているがそれも仕事ではないかと反論されました。主は、ユダヤ教の指導者たちは、自分たちには例外を認めておきながら、主が恵みのわざとして38年も寝たきりの病人を癒したのは律法違反だと強く批判していることは偽善だと断言しました。群衆の前で、主イエスがユダヤ教の指導者たちを公然と批判されたことが、群衆の間に緊張をもたらしました。

(1)大きな動揺(25-29節)
 この様子を見ていた人々の中にエルサレムの住民がいました。彼らは、ユダヤ教の指導者たちがいるエルサレムに住んでいましたから、祭りに参加するために地方や外国から来た人々以上に、彼らのことをよく知っていました。そのため、指導者たちがイエスを殺そうとしていたことに気づいていたようです。彼らは言いました。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。」彼らにとって不思議だったのは、ユダヤ教の指導者たちが、主イエスからはっきりと批判されたにもかかわらず、彼らが何一つ反論しなかったことです。彼らが黙っていたのは、主イエスの毅然とした雰囲気に圧倒されたのかも知れませんし、イエスの言葉を聞いて反論しても、逆にもっと強い反論を受けて議論に負けてしまうと思ったかもしれません。また、群衆の中にはイエスを良い人だと思っている人たちもかなりいたので、ここでイエスを無理やり捕らえようとすると、騒ぎになるかもしれないと恐れたのかもしれません。いずれにせよ、神殿に集まっていた人々は、イエスの堂々とした態度と、ユダヤ教指導者たちが何も言わずにいることのギャップに驚きました。それで彼らは続いてこういいました。「見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」ここで言われている「議員たち」とは、イスラエルの国会議員のことですが、当時は宗教と政治は一つだったので、彼らも皆ユダヤ教の指導者たちでした。エルサレムの住民は、もしかして彼らが何か新しい情報を得て、このイエスが本当にメシアだと考えるようになったのだろうか、いやそんなはずはないだろうと言っているのです。
 続いて、エルサレムの住民は次のように言いました。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」彼らの言葉は、当時、ユダヤ人の間に広く広まっていた言い伝えと間違った考えから来ていました。彼らは、イエスがナザレの出身者であることを知っていました。だから、私たちはこの人がどこから来たのか知っていると言っているのですが、彼らは、主イエスがベツレヘムで生まれたことは知りませんでしたし、何よりも、イエスが父なる神に遣わされて、この世に来られたことも知りませんでした。また、彼らは、「キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ」と言っていますが、この発言は当時の言い伝えによるものでした。当時、旧約聖書の言葉を誤解して、多くの人々は、「メシアは、ある日突然、神殿に現われて、その時、人々はメシアが来たことを知るのだ」と思っていました。しかし、この考えは、旧約聖書の教えに相反しています。というのは、旧約聖書は、メシアはダビデの子孫としてベツレヘムで生まれることをはっきりと預言しているからです。実は、群衆の中にはそのことを知っている人々もいました。42節にはこう書かれています。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

(2)異なる反応
 イエスの厳しい批判の言葉を聞いていたユダヤ教の指導者たちは激怒しました。彼らは何とかしてイエスを捕らえようとしましたが、不思議なことに、誰もイエスに手をかける者はいませんでした。それは、人間的に考えれば、31節にあるように、群衆の中にイエスを信じる人が多くいたので、捕らえようとしても、その人々が彼らの働きを妨害したためかもしれません。ただ、ヨハネは、ここでも「イエスの時はまだ来ていなかったからである。」と述べています。イエスキリストは、常に、父なる神の御心に従い、父なる神が決められたタイミングどおりに働いておられました。主イエスに対して、いろいろな人がいろいろなことを仕掛けようとしていますが、神様の計画を変えることはできないのです。31節を見ると、ユダヤ教の指導者たちは群衆の中のイエスを信じる人たちが話している言葉を耳にしました。一般のユダヤ人であっても、メシアに関する旧約聖書の預言について知っていました。例えば、イザヤ書の35章の5-6節にはこんな預言があります。「その時、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれる。そのとき、足の萎えたものは鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」彼らは、主イエスが多くの病人を癒したこと、目の見えない人を見えるようにしたこと、38年間寝たきりの人が起き上がったことなどを見ていました。さらには、5つのパンと2匹の魚で大人の男性だけで5000もいた群衆のお腹をいっぱいにさせるという奇跡も見ていました。そういうわけで、彼らは「キリストが来られるとき、この方がなさったことよりも多くのしるしを行うだろうか。」と互いに話し合っていたのです。この言葉を聞いたパリサイ人たちは危機感を覚えました。このまま放っておくと、群衆が本当にイエスがメシアだと信じて、大変なことになってしまう。彼らはそう思いました。それで、パリサイ人たちは祭司長たちと相談して、イエスを捕らえるために下役たちを送り出しました。下役とは、神殿の様々な働きに関わっているレビ人の中で、神殿の警備を担当していた人たちのことです。神殿には祭りの時だけでなく、常に、多くの人がやって来るので、暴動などが起きる可能性もがありました。警備隊は神殿の秩序を守る働きをしていた人たちです。これらのことから分かるように、エルサレムの住民の間でも、またユダヤ人全体でも、イエスに対する人々の見方ははっきりと分かれていました。群衆の中にはイエスをメシアだと確信する人々もいましたが、イエスを黙らせようと必死になっている人たちもいました。

(3)ユダヤ人たちのイエスへの軽蔑
 45,46節を読むと分かるのですが、イエスを見つけ出すために送り出された下役たちは、イエスを捕まえることはできませんでした。イエスは大胆に自分について語り続けました。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。」ユダヤ教の指導者たちはイエスを殺そうとして下役たちを遣わしましたが、誰も主イエスのいのちを奪うことはできません。父なる神は絶対にそのことを起こさせません。それは、主イエスがご自分からいのちを捨てることが父なる神の計画だったからです。主イエスは、ここで、自分の死について話しておられます。今は仮庵の祭り、10月初めごろです。約半年後の過越しの祭りの時、すなわち翌年の春には、主イエスは、十字架につけられ、三日目に蘇り、そして40日後に父なる神のもとへ戻って行くことになります。主イエスは殺されたのでもなく、殉教したのでもありません。私たちの罪が赦されるために自分から命を捨てられたのです。続いて、イエスは、自分を信じない人々に向かって警告の言葉を言われました。「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」主イエスを信じない人は、決して主イエスのいる所に来ることはできません。主イエスは、死んで三日目に復活された後、天に戻り、今は、天国で父なる神の右に座っておられます。主イエスは、今、天において栄光の中におられるのですが、主イエスを信じない人は決してそこに行くことはできません。彼らはユダヤ教の指導者という高い地位についていましたし、聖書の専門家でありましたが、主イエスを信じないので、彼らは天国に行くことはできないのです。主イエスはそのことを彼らに警告しました。
 ところが、ユダヤ教指導者たちは、イエスの警告の言葉にまったく耳を貸そうとしませんでした。また、彼らにはイエスの言葉の霊的な意味が分からず、すべてをこの世的に考えていました。「私たちに見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。」彼らは、自分たちの警備の力、警察の力を自慢していました。彼らはイエスが自分たちから逃げ去ることはできないと確信して、皮肉たっぷりに言ったのです。ただ、彼らが絶対に行こうとしない場所がありました。それは、異邦人たちがいる所です。それで、彼らはイエスが外国に住む異邦人の所に行くのだろうかと考えたのです。しかし、イエスは、彼らが行こうとしない場所のことを話したのではなく、彼らが行けない場所のことを話されました。天国です。主イエスは、まもなくすると、もともとご自分がおられた天国に帰られるのですが、それまでの間、主イエスは、自分を信じる人々を探し出すために、この世で働かれます。しかし、この世での使命を果たした後、主イエスが天に戻られたときには、もう、彼らはイエスを見つけることはできません。ここで、イエスが言おうとしておられることは、主が地上にいる間に、主の言葉を聞いて私を信じなければ、人は決して主のおられるところ、永遠の住処である天国に行くことはできないということです。第二コリント6章2節で、パウロはこう述べています。「神は言われます。『恵みの時にわたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。』見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」『』の中の言葉は預言者イザヤの言葉ですが、イザヤの預言が主イエスによって実現しました。当時のユダヤ人はまたとないチャンスの時を生きていました。父なる神から遣わされて救い主イエスがこの世に来ていたからです。彼らは恵みの時、救いの日の中に生きていました。しかし、その時を逃すと、救い主イエスとは2度と会うチャンスはありません。この時の、ユダヤ教の指導者たちにとっては、イエスを信じる最後のチャンスだったのですが、彼らは、そのチャンスを自分から拒否してしまいました。そのため、彼らは主イエスの救いを持つことができず、天国に行くことはできませんでした。
 私たちはどうでしょうか。今、ここに集まっている人々は、皆、神様から選ばれてここにいます。主イエスの十字架と復活の知らせを聞いて、すべての人は主イエスを救い主と信じることによって、すべての罪が赦されて永遠のいのちが与えられるという約束があることを知っています。神様を呼び求めるすべての人に、神様は答えてくださいます。いろいろ不安を感じる人に対しても、神様が「救いの日に、あなたを助ける」と言っておられるのです。しかし、必ず、いつか肉体の死の時がやって来ます。その時にはもはや救いのチャンスはありません。しかし、生きている間は、恵みの時です。どんなに過去に大きな罪を犯したとしても、悔い改めて主イエスを信じるなら、その人の人生は新しくされ、神様の栄光を現わす人へと変えられるのです。明治時代に好地由太郎という伝道者がいて、その人は日本だけでなく韓国や当時の満州にまで出かけて多くの人をキリストに導きました。実は、この人は、元々は凶悪な殺人犯だったのです。彼は18才の時に、放火と殺人の罪で牢屋に入れられました。何度も脱獄をした極悪人でした。しかし、そんな彼が獄中で、主イエスの福音を聞き、罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じたのです。その時から、彼らはまったく別人のようになり、恩赦を受けて出獄した後、伝道者として大きな働きをしました。彼が書いた自伝の中で、彼はこう言っています。「私は、獄中ではじめて文字を覚えたほどの無学な者でした。身分も知識も金もない前科者にすぎません。しかし、今は、私のような者でも伝道者という栄光ある働きをさせてもらっています。こんな私が今神様に用いられているのは、ただ、私のために十字架にくぎ付けになってくださったイエス・キリストの恵みに他なりません。」今は恵みのとき、救いの日です。あなたも、この恵みが過ぎ去る前に、イエス・キリストを信じませんか?                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

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