2021年7月4日 『裏切り者にならないために』(ヨハネの福音書13章21-30節) | 説教      

2021年7月4日 『裏切り者にならないために』(ヨハネの福音書13章21-30節)

 ヨハネの福音書の13章から主イエスと弟子たちとの最後の晩餐が始まりますが、その中で主イエスがびっくりするようなことをされました。それは弟子たちの足を洗ったということです。当時は、人が家の中に入る時に、外で汚れた足を洗って中に入っていましたが、これは自分でするのではなく、家の召使いがする仕事でした。しかも、それは召使いの仕事の中でも最も卑しい仕事と見なされていました。最後の晩餐の途中で、主が突然立ち上がって、12人の弟子たち全員の足を洗われたのですが、弟子たちはこれを見て驚きのあまり言葉が出ませんでした。主イエスは、弟子たちの足を洗い終えると弟子たちに、主が弟子たちの足を洗った意味を教えられました。それは、12人の弟子たちにとって主であり、師匠であるイエスが最も卑しい仕事をしたのは、弟子たちも主であるイエスの真似をして、お互いに謙遜になって、自分を低くして、相手のために仕える人として生きることを教えるためでした。12人の弟子たちは、3年余り、イエスから直接教えを受けていましたが、なかなかその教えを身に着けることができないでいました。実は、この食事の最中にも、弟子たちは「自分たちの間で一番偉いのは誰なんだ」と言い争いをしていたのです。従って、このイエスの教えは、彼らにとって心に痛みを感じるものだったと思います。同時に、主イエスは、この時に、12人の弟子の中の一人が自分を裏切ることを彼らに語りました。それは、弟子たちが、後になって、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったことを知って、他の11人の弟子たちのイエスに対する信仰が揺るがないようにするためでした。ユダがイエスを裏切る行動を取る前に、主イエスが弟子たちの前でユダの裏切りについて話されたのは、ご自身が神であり、イスカリオテのユダが自分を裏切ることも知っていること、そして、自分が十字架にかかるのはユダの裏切りの結果ではなく、神の計画に従って起こったことを教えるためでした。19節にそのことが記されています。「わたしは、そのことが起きる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしが「わたしはある」であることをあなたがたが信じるためです。」ここで主イエスが「わたしが「わたしはある」である。と言われましたが、「わたしはある」というのはユダヤ人にとって、神を表す最も聖なる名前のことです。英語ではI amと訳されています。この名前は神様が永遠の存在者であること、神様が何にも依存することなく存在する方であることを意味します。英語の動詞の現在形は今のことを表す時に使いますが、永遠に変わらないことを表すときにも使います。従って、この名前は神様が永遠の存在者であることを示します。また、英語の文章ではI amでは不完全です。その後に何かをつけないと文章になりません。しかし、神様には何もつける必要がありません。この名前は、聖書の神は、全能の神であって何にも頼ることのないお方であることを示しています。このように、主イエスは、最後の晩餐の時に、初めて、弟子たちに自分がユダヤ人にとって最も聖なる名前の神であることをはっきりと教えられたのです。ユダが自分を裏切ったとしても、イエスの十字架はユダの裏切りで始まったことではなく、神様の昔からの計画であり、すべては神様の支配の中での出来事であることを主は弟子たちに伝えられました。

 今日読んだ箇所は、その後の出来事です。21節を見ると、「イエスは、これらのことを話された時、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがのうちの一人がわたしを裏切ります。」ここに主イエスの「心が騒いだ」と書かれています。この言葉は非常に強い言葉で、極限に近い精神的な苦しみを意味する言葉です。主イエスは、自分が親しくしていた友のラザロが死んだ時にも、この時と同じように心を騒がせておられます。主イエスにとって、愛情を注いで3年余り自分のそばにおいて直接教えて来た弟子の一人が自分を裏切るということを考えて、どれほど胸を痛めたことでしょうか。普通は、私たちは人から裏切り行為をされて初めて裏切られたことを知ります。それでさえ、裏切られた時の苦しみは言葉に表せないほどのものですが、主イエスは、ユダが実際の行動を起こす前から、彼が裏切ることを知っておられたのです。そして、そのユダを最後の最後まで愛し通し、何とか彼が心を変えないかと願っておられた主イエスですが、ユダはイエスがいくら愛情を注いでも、イエスの愛を拒み、心を頑なにして行きます。そのようなユダの姿を見ることは、主イエスにとって本当に辛いことでした。

このイエスの言葉を聞いて、12人の弟子たちは大混乱に陥りました。22節に「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。」とあります。弟子たちは、これまでにもイエスの言葉に当惑をしていました。十字架にかかる時が近づいて来た時に、主イエスは弟子たちに、自分が十字架にかかることを話し始めました。しかし、弟子たちは、主イエスが力で世界を支配する、強い救い主であることを期待していたので、イエスの言葉を受け入れることができませんでした。そこに加えて、イエスに選ばれた弟子仲間の一人がイエスを裏切ることを聞いたので、彼らにはそれが何のことなのか全く理解できなかったと思います。彼らは、自分たちは仕事や家族を離れて主イエスの弟子になったという自覚があったので、自分の意志でイエスを裏切ることなど想像できませんでした。もしかすると、何か自分たちがやったことが弟子たちの思いに反して結果的に主イエスを裏切ることになるのだろうか、そんなことを考えたかもしれません。誰もユダが裏切るとは考えていませんでした。彼は弟子たちの会計を担当していました。彼には会計をするだけの能力がありましたし、ユダも自分が裏切り者であることがバレないようにすごく気を付けて行動していたはずです。マタイの福音書26章25節を見ると、ユダは、イエスの言葉を聞いて「先生、まさか私ではないでしょう。」と言っています。ユダの巧みなふるまいに、他の弟子たちはすっかり騙されていました。ペテロが何と裏切り者を見つけ出そうとして、ヨハネに誰が裏切り者なのかイエスに尋ねるように合図しました。23節に「弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。」と書かれていますが、これはこの福音書を書いたヨハネのことです。ヨハネは福音書の中で決して自分のことをヨハネと呼ばずに「主に愛された弟子」と呼んでいます。最後の晩餐の時のテーブルはダビンチの絵のように長い一直線のテーブルではなくコの字型の低いテーブルでした。主と弟子たちは椅子に座っているのではなく、左の肘をついて床に寝そべって右手で食べていました。この時、ヨハネは主イエスの胸のところにいたと書かれていますので、イエスの右隣にいました。ヨハネは少し後ろを向くとイエスと話ができる位置にいました。ペテロはヨハネの顔が良く見える反対側にいたのでしょう。二人は特に親しかったので、ペテロはヨハネにイエスに「裏切り者が誰なのか尋ねろ」と合図をしました。それで、ヨハネは自分の左側にいるイエスの胸に寄りかかるようにして小さな声で、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねました。

 主イエスも小さな声で自分に顔を寄せて来たヨハネに答えました。「わたしがパン切れを浸して与える者がその人です。」ヨハネにだけ聞こえたことでしょう。最後の晩餐は、ユダヤ教最大の祭りである過越しの祭りの特別な食事でした。パン切れとはイースト菌の入らない薄いパン切れで、人々は、それをハーブのペーストやナッツやイチジクを細かく砕いて作るソースに浸して食べていました。食事の席で、主人がパンをソースに浸して自分の手で客に手渡すのは、その客に対する特別な敬意を表す行為でした。主イエスは、自分を裏切ることを心に決めているユダに対して、最後の最後まで最大の敬意を現わされました。ユダはイエスの左隣にいました。そこは名誉ある席でした。ユダがイエスの左隣にいたので、主は直接ユダにパンを手渡すことができたのです。主イエスは最後まで忍耐強くユダに愛を注がれました。それは、ユダが自分がしようとしていることの愚かさに気づいて、悔い改めることを願ってのことでした。しかし、ユダの心はイエスを裏切ると堅く決心していたので、主イエスの思いはユダには届きませんでした。彼が、主イエスの思いを受け取らずにパンを受け取った時、ユダは自分の罪が赦されるチャンスを失いました。「彼の心にサタンが入った」と書かれています。言い換えると、彼の心が完全にサタン、悪魔に洗脳されてしまったということです。この後すぐ、ユダは裏切りを実行します。彼は、主イエスの愛を受け取る最後のチャンスを自分の手で捨て去ったのです。ユダがイエスの最後の招きを拒んだ時に、主は、いわば、彼がサタンの支配下に入ることを許可されました。主はユダに言われました。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」主イエスは、ご自身の十字架の死についてすべてのことを主がお決めになっていて、すべてが主イエスのご計画どおりに進んでいることが、この言葉からも分かります。主イエスはヨハネの福音書の10章18節ではっきりと言われました。「だれもわたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」これまで、主イエスを敵対視していたユダヤ教の指導者たちは、早くからイエスを殺そうと機会を伺っていましたが、イエスを殺すことはできませんでした。主イエスの許可なしに、誰もイエスを殺すことはできないのです。十字架の死は、100%主イエスが自主的に自分のいのちを捨てられたことによる死なのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」このイエスの言葉を聞いた他の弟子たちは、なぜ、主がユダにそう言われたのか分からず当惑しています。29節には彼らの考えが記されています。この言葉を聞き、主イエスの手からパン切れを受け取るとすぐに部屋から出て行きました。ユダは、イエスが自分がイエスを裏切ろうとしていることに気づいていることを悟ったので、すぐに行動に移しました。ぐずぐずしていると目的を達成することができないかも知れないからです。マルコの福音書によると、ユダはまっすぐユダヤ教のリーダーである祭司長たちの所へ行き、彼らに「今がチャンスです」と話しました。それは、これまでの経験から、イエスと弟子たちは食事の後に、エルサレムの東にあるオリーブ山のふもとに祈りに行くことを、イスカリオテのユダが知っていたからです。主イエスがいつも弟子たちと祈っていたのはゲッセマネと呼ばれたオリーブ山のふもとのオリーブ園でした。そこは人気のない所なので、ユダヤ教のリーダーたちは、群衆の目に触れずに、イエスを捕らえることができる場所でした。

 ヨハネは30節の終わりに、「時は、夜であった。」と記していますが、もちろん、この出来事は木曜日から金曜日に変わる夜中の出来事なので、夜であることは間違いないのですが、わざわざ、彼がこう記したのは、エルサレムの町が夜の闇に包まれていたことを表すだけではなく、ユダの心が闇に覆われていたことを暗示しているように思えます。彼の心は完全に悪魔の支配下に置かれていて、イエスを殺すことしか考えられなくなっていたのです。それで、主イエスはユダに「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言われたのです。私たちも、自分の怒りや不満を、自分の思いのままに膨らませていくと、ユダと同じように、悪魔の支配下に置かれてしまう危険性があります。食事が始まる時、誰もがイエスのそばに座りたかったと思いますが、主はユダを隣に座らせました。きっと他の弟子たちはうらやましいと思ったことでしょう。内心では、ユダに嫉妬していたかもしれません。食事中も、主はユダの足を洗っただけでなく、隣にいますから、いろいろと言葉を掛けたと思います。そして、主イエスはパンをソースに浸してユダに手渡しました。それは愛情と尊敬の表す好意でした。主イエスは最後まで、自分を裏切るユダに愛情を注いだのです。ユダはパン切れは受け取りましたが、イエスの愛は受け取りませんでした。パンを受け取るという行為は「私はあなたのために仕えます。」と主人に従うことを意味する行為なのですが、ユダの心はイエスから完全に離れていました。彼が主イエスの手からパンを受け取ったのは全くの偽りの行為でした。主は深い憐みと悲しみの心で、ユダが出て行くのを見ていました。主イエスがユダを見捨てたのではありません。ユダが主イエスを見捨てて出て行ったのです。しかし、聖書は教えています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」福音書は、単なるイエスの生涯を描いた書物ではありません。福音書は、主イエスが本当に神であることを私たちに教え、私たちに主イエスについて選択することを求める書物です。自分の1回しかない人生を、「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われた主イエスに従って光の道を進むのか、それとも、ユダのように、自分の願い、自分の欲望に従って、主イエスの愛を受け入れずに、闇の道を進むのか、そのどちらかを選ぶように福音書は私たちにチャレンジするのです。ユダが最後の晩餐の部屋から外にでると、時は夜でした。外は真っ暗闇の世界でした。彼の人生の最後は滅びでした。ユダに注がれた主イエスの愛の招きは、今も、私たち一人一人に注がれています。主イエスを信じるとは、その愛をそのまま受け入れて、主イエスとともに生きることを決心することです。裏切るとは、主イエスが与えようとしている愛を拒否することです。裏切り者にならないために、私たちは、皆、主イエスの愛の招きを受け入れる者でありたいと思います。

 人生の道を進む時、私たちはいつもどちらの道を進むのか選ばなければなりません。ずっと昔の話ですが、アメリカで二人の青年がある晩バーに行こうとしていました。その途中、二人はある教会の前を通りました。特別な集会の看板が出ていました。その時一人が、「今日は飲むのをやめてこの集会に出てみよう。あの看板に、罪からくる報酬は死であると書いてあるぞ。」しかし、相手は教会に行く気がないので、二人は喧嘩別れをしてしまいました。それから30年後、一人の死刑囚が監獄で、あるニュースを聞いて大声をあげて泣いていました。看守は驚いて「どうしたんだ」と尋ねると、その男は言いました。「クリーブランドが大統領になったって今ニュ―スで言ってた。あいつは、俺の若い頃の友人だった。30年前、教会の前で喧嘩別れしてしまった。あいつは教会に入って、クリスチャンになり、苦労して法律を勉強して市長になり、知事になり、ついに今、アメリカの大統領に選ばれたんだ。それにひきかえ、俺は、あの時バーに行って酒におぼれ、金に困って人のものを盗み、人殺しまでやってしまって、今は死刑囚だ。俺はなんてバカなんだ。あの時、俺もあいつと一緒に教会に入っていれば、こんな人生じゃなかったはずだ。」彼はそういって泣いていたそうです。あなたも、主イエスの愛の招きを受け入れて、光の道を進んで行きませんか。

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