2021年11月7日 『祈りに関するもう一つの約束』(ヨハネの福音書16章23-28節) | 説教      

2021年11月7日 『祈りに関するもう一つの約束』(ヨハネの福音書16章23-28節)

 ヨハネの福音書もだんだん終わりに近づいて来ました。ということは、主イエスが弟子たちと最後の食事をした最後の晩餐が終わりに近づいてきたことを意味しています。この食事の間、13章から16章まで、主イエスにとって弟子たちを教える最後の時なので、彼らにできるだけ多くのことを教えられました。今日読みました16章23節以降は、これまで主イエスが語って来られたことの総まとめとして語られた言葉ですが、今日の個所では、主は、あらためて、祈りについて教えておられます。主がふたたび、祈りについて教えられたのは、弟子たちが、これから主イエスから委ねられた使命を果たして生きて行くためにもっとも必要なことは祈りであることを彼らに伝えるためでした。12弟子にとって、イエスの弟子として生きるのに最も重要なものが祈りであるとすれば、祈りは私たちにとっても信仰生活の中で最も大切なものに違いありません。今日、主イエスが弟子たちに語られた教えは、私たちにとっても非常に大切な教えであることを心にとめて受け取りたいと思います。

(1)わたしの名によって祈る
 23節で主イエスは「その日には、あなたがたは私に何も尋ねません。」と言われましたが、この言葉は一つ前の22節と繋がっています。主は22節で、「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪う者はありません。」と言われました。その日とは、弟子たちが主に再び会う日であり、その時、弟子たちの心は喜びに満たされ、その喜びは誰からも奪われることがないという日です。その日とは、弟子たちが主とふたたび会う日を指していますが、主イエスが復活された時ではありません。主イエスは復活のあと40日間弟子たちと過ごされますが、使徒の働きの1章を見ると、弟子たちは、まだ完全にイエスの十字架の死と復活の意味を完全に理解していないので、主イエスに質問をしています。しかし、主イエスが天に帰られた10日後に、聖霊が弟子たちに注がれた時、彼らは、初めて十字架と復活の意味を完全に理解し、新しい力を受けました。彼らは、突然、主イエスの福音を大胆に語り始めました。主イエスは、天に帰られたので、物理的にも主イエスに尋ねることは不可能ですが、23節で主が「その日には、あなたがたは私に何も尋ねません」と言われた意味は、聖霊が彼らに信仰の大切なこと、大切な真理を教えてくださるので、弟子たちが主イエスに何も尋ねなくなるという意味なのです。

 さらに主イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求める者は何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」実は、主イエスはこの言葉を最後の晩餐の中で、すでに14章と15章でも語っておられます。主が3回繰り返して教えられたということは、その教えがそれほど重要であることを示しています。ここでは、特に「わたしの名によって父に求める」ということについて考えたいと思います。私たちはいつもお祈りの最後に「主の御名によって」とか「イエス様のお名前によって」と祈っていますが、これは単なるお祈りを締めくくる決まり言葉ではありません。これは主イエスに対する信仰告白なのです。

 「イエスの名によって祈る」とありますが、ユダヤ人は「名前」を単なるタイトルとは考えずに、その名前が表す人そのものだと考えていました。従って、イエスの名によって祈るとは、主イエスという名前が表す方を信じて祈るという意味になります。主のフルネームは「主イエス・キリストです。」主という言葉はギリシャ語ではキュリオスというのですが、一般の社会では人間であるローマ皇帝もキュリオスというタイトルをつけて呼ばれていました。しかし、聖書の中では、主はイスラエルの神を表します。イエスというのはヘブル語の名前「ヨシュア」をギリシャ語発音にしたものです。「ヨシュア」というのはユダヤ人男性の一般的な名前なのですが、その言葉は「イスラエルの神は救い」という意味です。イエス様が生まれる前に、み使いはマリアの夫ヨセフに「生まれて来る男の子にイエスと名付けなさい」との命令を与えましたが、その理由として、み使いは「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と語っています。イエスという名前に「人々を罪から救う」という意味が含まれているのです。「キリスト」というギリシャ語は、ヘブル語の「メシア」という言葉を翻訳した言葉です。どちらも直接的な意味は「油を注がれた者」という意味です。イスラエルの社会では、神様から大切な働きに任命された人に油を注いでいました。メシア、旧約聖書が約束していた救い主を意味する言葉です。主イエスはその約束の救い主として来られたので、キリストと呼ばれました。従って、イエスの名によって祈ることの第一の意味は、イエスの名によって祈るとは、イエスが神であり、イエスは十字架で死んで三日目に復活されて、人々を罪から救うための働きを行った方であることを信じて祈るということです。したがって、イエスの名によって祈れるのは、主イエスを救い主と信じるクリスチャンだけなのです。

 「イエスの名によって祈る」の第二の意味は、イエスというお方が持っておられるものに頼って祈るということです。自分の力に頼るのではなく、イエスの力に頼るという意味です。このことを銀行で使われる小切手を例えにして考えてみましょう。日本では小切手を使うことは少ないですが、アメリカではよく使われます。私たちは20年前に1年間アメリカに留学していましたが、その時、小切手をよく使いました。誰か他の人の名前のサインが書かれた小切手を持って、銀行で現金に変える場合は、そのサインした人の口座にお金があれば、現金に変えることができます。その人がその銀行に持っている口座に十分に資金があるので、その小切手に書かれている名前の人が信用されるからです。例えで言えば、私が天国銀行に言って私のサインが入った小切手を持って行っても、何も受け取ることはできません。私は天国銀行に何も預けているものがないからです。しかし、イエスの名が入った小切手であれば、私は求めるものを受け取ることができます。主は天国に無限の財産を持っておられるからです。神様は、私たちにイエスの名によって神に近づくことを許してくださいます。それは、本当にものすごい特権です。したがって、私たちは、自分が持っていないもの、自分にはない力を、イエスの名によって求めることができるのです。

 「イエスの名によって祈る」の第三の意味は、先ほども言ったように、ユダヤ人は名前はタイトルではなくその人そのものを表すと考えていますから、この祈りは、主イエスのご性質、御心と一致する祈りであることを意味します。つまり、自分が今直面している状況の中で神様ならこう祈るであろう、そのような祈りのことです。言い換えると、自分がイエス様になったつもりで祈る祈りだということです。自分がほしいと思うものを願い求めるのではなく、主イエスなら願い求めるだろうと思われるものを願い求めることですが、そのためには主イエスの心を知らなければなりません。今の私たちがイエスの心を知ることができる方法は二つです。第一は聖書を通してです。聖書の中に、神様の御心、目的、神様がどんなお方であるか、それが記されています。ですから、私たちがイエスの名によって祈るためには、聖書を読み、神様がどんなお方であり、その御心が何かを知らなければなりません。第二に、聖霊の働きがあります。聖書を読むときに、ある言葉が心に迫る時があります。聖霊が働いておられるのです。聖書に書かれていることを、今の私たちがおかれている状況ではどう意味であるか、それを表してくださいます。また聖霊ご自身が私たちのために祈ってくださいます。ローマ人への手紙8章26節を読みましょう。「同じように、御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」神様は、この世界を創られたほど偉大な方ですが、同時に、小さな一人の人間を心に留めてくださる方です。主イエスは、地上で働いておられた時、罪が人間を支配している状況を見て泣かれました。今日、聖霊は私たちの弱さ、私たちの苦しみを自分のこととして感じて呻かれるのです。私たちの重荷をともに背負ってくださるのです。それだけではなく、私たちが苦しみの中でも、神の御心にかなった生き方ができるように私たちのために祈ってくださいます。私たちは、必ずしもつねに神様の御心を理解している訳ではありません。どのように祈ったらよいか分からない時があります。しかし、私たちが知らない時に、聖霊は私たちの重荷を自分の重荷として祈ってくださるのです。ですから、私たちは、自分の祈りを言葉にできなくても、神様への愛と感謝と喜びを持っているなら、聖霊が代わりに祈ってくださいます。このような祈りを私たちが神に捧げる時に、23節で主イエスが言われたように、「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださるのです。

  • 新しい祈りの約束

 25節で、主はこう言われました。「わたしはこれらのことを、あなたがたに例えで話しました。もはや例えで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。」主イエスが十字架に掛かるまでは、弟子たちはイエスの教えを正しく理解できないことが何度もありました。その理由の一つに、主イエスがいろいろな例え話を使って教えることが多かったからです。例え話は、その話が何を教えているのかすぐには分からないことが多く、それを理解するためにはその意味を深く探り求めていかなければなりません。主イエスが、例え話を話された理由は、イエスの教えを聞く人々に霊的な理解力がなかったからでした。その結果、イエスの教えを聞いた多くのユダヤ人たちが、最終的には、イエスを十字架につけろと叫んでしまいました。弟子たちも、最後の最後まで、主イエスが十字架に掛けられる本当の意味を正しく理解することができませんでした。同時に、彼らは、ひとり子をも惜しむことなく私たちのために犠牲にされた父なる神の愛についても、まったく理解していませんでした。しかし、ここで、主イエスは新しい約束を与えておられます。「もはや例えで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。」で、この時とは、ペンテコステの時です。主イエスが天に帰られた後、弟子たちに助け主として聖霊が与えられました。その聖霊については、主は同じ最後の晩餐の時、少し前にも弟子たちに語っておられました。14章の26節です。「しかし、助け主、すなわち、父なる神がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」弟子たちは、これまで正しく理解できなかったことが、これからは、聖霊の働きによってはっきりと理解できるようになるのです。私たちも、今、聖霊が働いておられる時代を生きています。私たちが聖書を読むとき、神様に祈る時に、聖霊が働いて、神様について新しいことをより深く知ることができるようになっています。

 もう一つの約束は、24節に記されていますが、私たちが喜びに満ちあふれるようになるということです。その喜びはどこから来るのでしょうか。それは、弟子たちの祈りは、主イエスが十字架で行ってくださった贖いの働きの結果、神様に受け入れられる祈りとなり、祈りが答えられることを意味しています。それだけでなく、聖霊が私たちと共にいてくださることが、私たちにとって大きな喜びになるのです。弟子たちは、しばらくの間、苦しみを経験します。しかし、それはいつまでも続くものではないことを主イエスは約束してくださいました。主イエスは、ご自分がまもなく十字架という大変な苦しみを受けることになっているにもかかわらず、ご自分のことよりも、弟子たちのことを心配しておられました。弟子たちの実際の生活は、多くの弟子が殉教したことを考えると、人間的には決してハッピーな人生ではなかったでしょう。しかし、彼らは、聖霊が与えられたことによって、主がいつも自分たちとともにおられることを確信していました。そして、主の名によって祈る祈りが聞かれることを何度も経験していました。だから、彼らは、苦しみの生活の中で喜びを感じることができたのです。

 また、主イエスは弟子たちに言われました。27節です。「父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。」父なる神様が私たちのいのりを聞いてくださる理由は何かというと、私たちを愛しておられるからです。ここで「愛する」と訳された言葉は、主イエスの十字架の愛を表す「アガペー」という言葉ではなく、「フィレオ―」という言葉が使われています。「フィレオ―」は親が子どもに示す愛情、友だち同士の愛情を表す言葉です。神様は、私たちのような罪人を、自分の子どものように愛してくださるのです。人間は、誰かから愛されていることを実感すると、強く生きることができると思います。そして、私たちは大胆に、父なる神様に直接自分の願い事を訴えることが許されるのです。これらの約束は、弟子たちを生き返らせ、彼らは大胆な働き人になり、地の果てにまで出て行って主イエスを述べ伝える証し人になりました。弟子たちに与えられた約束は、私たちにも与えられています。祈りを通してもっともっと神様から多くのものを受け取って行きたいと思います。

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