2021 年12月26日 『救い主を見た人』(ルカ2章21~38) | 説教      

2021 年12月26日 『救い主を見た人』(ルカ2章21~38)

 クリスマスの夜が過ぎて、新しい朝を迎えました。イエスの生涯を描いた映画では、クリスマスのシーンが終わると、次の場面は救い主としての働きを始めるイエスの場面に移りますが、実際には、ヨセフとマリヤには、しばらくは救い主が生まれたあともしばらく大変な生活が続いたと思います。人口登録にベツレヘムに来ていた人々も登録を終えると、それぞれ自分の家に戻りましたから、村の宿屋の部屋にも余裕が出たことでしょう。二人はどこかに部屋を見つけてしばらく滞在したことと思います。マリヤは出産したばかりですから、長旅をすることはできません。 

 22節には「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムに連れて行った。」と書かれています。旧約聖書の律法によると、出産した女性は宗教的に汚れているとみなされました。男の子が生まれると40日間、女の子の場合は80日間、女性は汚れているとされて、隔離されていました。22節の「きよめの期間」とは、その40日間のことでした。二人は、ベツレヘムから数時間歩いて、エルサレムにある神殿に出かけました。自分たちに生まれたこどもを神様にささげるためでした。今、教会では、献児式というのを行います。この時代には、こどもを神にささげるときに、一緒に動物の捧げものを持って行きました。二人のところには、まだ東方の博士たちは来ていなかったのでしょう。二人は貧しかったので、羊をささげるお金がなく、一番安い山ばとを捧げました。当時のエルサレムの神殿は非常に大きな豪華な建物でした。いつもイスラエルだけでなく、海外からも大勢の人が訪れるので、神殿はいつも混雑していました。そこに、救い主の誕生を待ちわびている一人の人がいました。

  ユダヤ人の多くは旧約聖書の教えを信じ、救い主(メシヤ)が来ることを心待ちにしていました。ところが、多くのユダヤ人は、自分にとって都合の良い救い主を待っていましたので、本当の救い主が来られた時に、救い主を信じることができませんでした。しかし、ユダヤ人の中に、真実の信仰者で、正しい信仰によって救い主を待っている人々もいました。その一人が25節に記されているシメオンでした。聖書には、この人が何歳であったか書かれていないのですが、この人が「救い主を見ると、いつでも死ぬ用意ができている」と言っているので、一般的に老人だと考えられています。伝説では113歳だったというのですが、これはあくまでも伝説です。彼は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいたと書かれています。「イスラエルの慰められるのを」待ち望んでいたこと、これは、旧約聖書の約束の救い主が来ることを待ち望んでいたことを意味します。イザヤ書の66章12節~14節を読みましょう。神様が私たち人間に何をなさりたいのか、聖書は「慰めること」だと教えます。赤ちゃんが母親の腕に抱かれているとき、どれほど心は平安で喜びで満ちていることでしょうか。神様は、そのように、私たちを腕にだき、ひざのうえに置いてかわいがってくださるのです。そして、私はあなたを慰めると神は言われました。神を信じる時に、このように神様の慰めを受けることができるのです。その時に、心は喜び、体の骨も生き返ると約束されています。私たちをとりまく状況は、不安を感じさせ、時には他の人々から攻撃されたりすることもあるでしょう。まるで、骨が枯れてしまうような経験をしたとしても、神様はその干からびた骨を生き返らせる力を持っておられるのです。シメオンは、この神様の約束の言葉を信じていました。ふつう、人は年を取ると気持ちが落ち込んでしまいます。以前はばりばり仕事をしていたのが、今は何も生きがいとなる仕事がありません。多くの友人もすでに世を去ってしまっているでしょう。体も、以前できていたことがだんだんできなくなってきて、病気になるなかとなか治りません。このような状態では、人の心は落ち込んでしまいます。しかし、シメオンは違いました。彼は、救い主が来られるのを心待ちにしていたので、大きな希望をいつも心に抱いていたからです。特に、彼は、聖霊によって、神様から「メシヤ、キリストを見るまでは死なない」というメッセージを受け取っていました。そんな、ある日、彼は、聖霊の働きを感じて、エルサレムの神殿に行きました。いつものように、神殿は大勢の人でごったがえしていました。神殿で働く大勢の祭司たち、レビ人たちも忙しく神殿の中を動き回っていたでしょう。彼らはユダヤ教の専門家たちです。旧約聖書をよく知っている人たちです。しかし、彼らのうち、誰も、シメオンのように、メシヤが来られること、いや、すでに来られて、今、神殿に来ていることを誰も知りませんでした。そのようなところへ、ヨセフとマリヤが赤ちゃんイエスを抱いて神殿に入ってきました。田舎の出身で貧しい二人の服装は、都に住む人々の服に比べると、みすぼらしいものでした。神殿の中に、だれも若い二人に目を留める人はいません。しかし、シメオンは違いました。彼らが神殿に入ってきたときに、シメオンには、その赤ちゃんこそ旧約聖書が歴史の始まりの時から預言してきたメシヤであることがすぐに分かりました。聖霊が働いて、彼には、この何の輝きもない赤ちゃんこそ旧約聖書に約束されていた救い主だと分かったのです。

 シメオンは、急いでヨセフとマリヤに近づき、そしてマリヤの腕に抱かれていた赤ちゃんを取り上げて、神様をほめたたえました。ヨセフもマリヤも突然のことにびっくりしたと思います。ここに記されているシメオンの言葉は、ルカの福音書に記されている5つのクリスマスの賛美の一つです。そして、シメオンは言いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」シメオンの賛美は、第一に神を礼拝する賛美です。彼は、神様が約束を守って救い主を送ってくださったことに感謝し、喜んでいます。自分の目で救い主を見たことは、彼にとって何にもまさる特権であったのです。また、彼の歌は救いの歌でもあります。彼は、「私の目であなたの御救いを見ました。」と賛美しています。、彼は、救い主を見たので、安らかに去ることができると告白しています。ここで、「去らせる」と訳されているギリシャ語には、いくつかの意味が含まれていますが、その一つ一つの意味が、主イエスを信じるクリスチャンの死に当てはまるように思います。一つは、とらわれている人を解放するという意味があります。私たちのいのちは、今、朽ちていく肉体の中に、ある意味でとらわれていますが、将来、私たちのたましいは肉体から解放されるのです。また、この言葉には、船を岸壁に縛っている綱をほどいて出発するという意味もあります。また、さらには、「テントをたたむ」という意味もあります。第二コリント5章1節には次のような言葉があります。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神のくださる建物があることを私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」私たちが地上での生活に与えられているからだは、聖書は幕屋、つまりテントのようなものだと言います。テントは長く住むためのものではなく、一時的に住む場所として使います。地震や洪水で家を失った人は一時的にテント生活をしなければなりません。しかし、自分の住む場所が見つかったら、テント生活は終わります。私たちの地上の生活は、一時的なもので、必ずいつか終わりがきます。しかし、その終わりは、実は、永遠のいのちによる生活の始まりでもあるのです。だから、クリスチャンは死ぬことを恐れなくてもよいのです。私たちの慰め主である神様とともに天国で永遠に生きる者に変えられるからです。そして、この言葉には重荷を下ろすという意味も持っています。主イエスは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)この世で生きていく時には、私たちはいろいろ悲しい経験やつらい経験もします。人生にはいろいろな重荷があります。クリスチャンにとって、肉体の死は、そのような重荷からの解放を意味します。私たちは、あらゆるものから解き放たれて、神様の祝福の中に移されて行くのです。シメオンは、幼子イエスを自分の腕に抱いて、涙を流してこの歌を歌ったことでしょう。そして、もう自分はいつ死んでもよいという気持ちになったと思います。彼は人生の終わりの時期を過ごしているときも、一つのことを願い、その希望をしっかり握って生きていました。彼は、年を取ったことによって気持ちが落ち込むことなどなかったはずです。

 人は死ぬ前に何を第一に願うのでしょうか。人生に成功すること、歴史に自分の名前を残すこと、財産を蓄えること、家族が健康で平和であること、私たちはこのような自分を中心として考える願いを持ちます。しかし、シメオンは違いました。彼は、全世界の救い主になる方を見ることを第一の願いとしていました。シメオンの生き方から教えられることは、人間は、イエスを救い主として受け入れる時に、本当に死ぬための備えができるという点です。死ぬための準備は、老人だけに必要なことではありません。人は、いつ死ぬかわからないからです。シメオンには、この幼子が、神から与えられた救い主であることを信じる信仰がありました。クリスマスは、父なる神が、私たちのために身代わりとなって十字架につけるために、ひとり子イエスをこの世に遣わした日と言うことができます。私たちが自己中心の罪の生活から解放されるために、まったく罪のない神の御子イエスを十字架につけるために、父なる神は御子イエスをこの世に送り出されたのです。ここに私たちに対する神の愛が表わされています。イエスは、十字架にかかるためにこの世に生まれてくださいました。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、イエスを救い主と信じる時に、永遠に滅びない永遠のいのちが与えられるのです。そのことを知っているから、クリスチャンは、死を恐れる必要がありません。2000年前のクリスマスから今日にいたるまで、どれほど多くの人が、救い主イエスと出会って人生が変えられたことでしょうか。シメオンは、長年待ち続けていた救い主を自分の目で見て、いつ死んでも良いと思いました。死に対する準備ができました。聖書は、人は救い主を信じる時に、本当に死に対する準備ができると教えています。あなたは、シメオンのように救い主を信じておられるでしょうか。あなたは、本当に、死に対する備えができているでしょうか。

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